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2019.10.11

ゲストはTOKYO BASE代表取締役 谷正人さん 第27回SMART USENの「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」

 USEN(東京、田村公正社長)が運営する音楽情報アプリSMART USENで配信中の「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」。ウェブメディア「ジュルナルクボッチ」の編集長/杉野服飾大学特任教授の久保雅裕氏とフリーアナウンサーの石田紗英子氏が、ファッション業界で活躍するゲストを招き、普段はなかなか聞けない生の声をリスナーに届けるが、アパレルウェブでは、その模様をレポートとして一部紹介していく。第27回のゲストは株式会社TOKYO BASE代表取締役の谷正人さん。

▼全編はこちらでお聞きいただけます▼

 

 

提供元:encoremode

<前略・オープニングトーク>

 

久保:谷正人さんは、以前この番組に来ていただいた鹿島研さんのデイトナ・インターナショナルにいて、独立して立ち上げたのがセレクトショップ「ステュディオス」を展開するTOKYO BASEです。日本のブランドを取り上げることをコンセプトにしています。多くのセレクトショップがインポートもたくさん仕入れて販売している中で、ステュディオスは日本のブランドを世界に発信する、支援するという志の高いお店で、上場もされています。

 

石田:それでは谷さん、どうぞ。

 

:よろしくお願いいたします。TOKYO BASEの谷と申します。

 

石田:お若いですね。今、おいくつでいらっしゃいますか?

 

:35歳です。もうすぐ36歳。

 

石田:番組のゲストでは最年少です。静岡の浜松でお生まれですね。

 

:高校生までいて、大学進学を機に上京してきました。

 

久保:浜松は綿織物の産地。デザイナーにも浜松の機屋さんに通っている方々がいます。

 

:うちも浜松の工場で作ったりしていますね。

 

石田:ご家族やご親戚がそういうお仕事をされている?

 

:今はいないのですが、私のひいおじいちゃんが京都の小さな呉服屋の出身で、浜松で一番大きな百貨店を作った人なんですね。私の父親は次男だったんですけど、その仕事に関わっていたので、知らず知らずのうちに洋服を扱うとか流通ということについては、ある意味、洗脳されていましたね。

 

石田:いつかはそういうお仕事をしたいなあ、と考えていたのですか?

 

:いや、全然思っていませんでした。サッカーが大好きだったんです。

 

<中略・小学校から高校まで続けたサッカーの話>

石田:おしゃれは好きでしたか?

 

:サッカーと同じくらい好きだったのが洋服でした。僕が暮らしていた頃の浜松にはセレクトショップもあまりなく、ちょっと有名なブランドは名古屋に行かないと買えませんでした。すごくファッションの情報に飢えていたので、雑誌を見たり、個店に行ったり、部活が休みになると友達と買い物に行ったり、時には名古屋にも。中学1、2年の頃は、裏原宿の文化ができ始めた時期だったんですね。「エイプ」のNIGOさん、藤原ヒロシさん、「ソフ」の清永浩文さんとかに憧れて、ファッションってカッコイイなってすごく思っていました。

 

石田:転機となったのはどのあたりでしょう?

 

:大学の頃ですね。楽天の三木谷浩文さん、サイバーエージェントの藤田晋さん、堀江貴文さんといった方々が若手起業家と言われて上場していました。社長というと、おじさんが昼に来て、ハンコを押して帰っちゃうみたいなイメージでしたけど、若い起業家たちが自分たちの得意分野で世界を変えようという姿勢を見て、「こういうことをやりたい」と思ったのです。ちょうど大学1年生の時に、先輩がITベンチャーの会社を作ったんですね。ビジネスブログみたいなものを日本で売る仕事で、それを手伝ったのです。飛び込み営業で、多い時には1日に400件くらい回っていました。

 

久保・石田:えーっ!

 

:名刺交換を10件できて、1、2件成約できたら万々歳っていう世界。それを2年ほどやりました。完全出来高制で、収入も結構良かったですね。多い時で月50万、60万円くらい。

 

久保・石田:えーっ!

 

:そこそこお金持ちになるじゃないですか。車なんかも買ったりしていました。でも、3年生になって就職活動が始まって将来を考えた時に、やっぱり人生ってお金じゃないなと思ったのです。「稼ぎが減ったとしても自分の好きなことをやりたい」ということを確信したのがそのタイミングでした。好きなことを仕事にするというこだわりが出てきたのです。

 

石田:アパレルの会社がたくさんある中でデイトナ・インターナショナルを志望したのは?

 

:僕の世代って普通に就職するとしても、百貨店や商社、大手のアパレルメーカーくらいしかなかったんですよ。いわゆる大手セレクトショップが新卒採用を始めたのは、僕の下の世代から。自分が好きなファッションをやっていて、新卒募集をしていたのがデイトナ・インターナショナルでした。3年で独立しようと決めて入りました。

 

久保:最初から?

 

:自分が好きでビジネスになる商材を扱うお店を作りたかったんですね。そのためには、まずは経営者の顔が見える会社でないと駄目だと。同時に、比較的小規模で、ある程度の裁量権を持てる会社でないと駄目だと考えていたのです。で、鹿島社長に会ったら、衝撃的で……(笑)。それ以前にもメディアで鹿島社長を見たことはありましたけど、実際に話を聞いたり聞いてもらったりする機会はその時が初めて。鹿島社長は茨城県の6坪の古着屋から多店舗展開するセレクトショップまで成長させた人です。「この人についていくのが一番手っ取り早いな、デイトナに入りたい」と思ったのです。

 

<中略・入社時の意外な研修の話>

石田:デイトナではどういう仕事を経験されたのですか?

 

:実はフリークスストアには1回も携わったことがないんです。入社して4ヶ月目でしたか、別の業態で不採算店舗があったんですね。フリークスストアよりちょっと低い価格帯で、ヴィレッジヴァンガードの洋服版みたいな業態を原宿でやっていました。そこの店長が辞めしまったのです。社長室に呼ばれてその店舗のPL(損益計算書)を渡され、「半年やるから黒字にしろ。それができたら、その場所でおまえの好きなことをやらせてやる」と。

 

久保・石田:おーっ!

 

:「駄目だったらそのお店は潰すし、おまえは別にデイトナ、フリークスストアっぽくないから、おまえの居場所も知らん」と。まあ半分本気、半分冗談です(笑)。すごいチャンスをもらったので「やります」と応えて、プロジェクトリーダーになりました。それが実は、ステュディオスなんですよ。とにかくお客様は多くて、高校生からおじいちゃん、おばあちゃんまで来ていたのですが、売れない。いったん来店人数を絞らないと、どこに何をしていいのか分からないような状態でした。それでリニューアルをしたいと提案したんですけど、不採算なので予算など出る訳もありません。じゃあ自分たちでやっちゃえということで、みんなで東急ハンズに行って、ペンキを買って……。

 

石田:DIY!

 

:黒かった店舗を床から天井、外壁まで一晩で真っ白にしたんです。営業を一日も止めたくなかったので、営業が終わると商品を外に出して、みんなで深夜までペンキを塗って、乾いたところから商品を搬入して、何事もなかったかのようにリニューアルをしました。「やりすぎだ」って怒られましたけどね。ただ、表層的なリニューアルをしてもうまくいくものではありません。売れないわけですよ。そのタイミングでバイヤーさんが店にいらしたんですね。新卒社員が、キャリアのあるバイヤーさんに「この商品は売れないから変えてくれ」と言わなければならないわけです。バイヤーさんに無理矢理、展示会に同行させてもらったり、時には土下座して商品を入れ替えてもらったり、「社長にやれって言われているんです」なんて言いながら変えてもらったこともあります。

 

久保:どういう方向に変えていったのですか?

 

:ターゲットを自分と同じ年齢の男性に絞り、品揃えも友達や自分が好きなものに絞って3分の1くらいにしました。すると来店人数はどんどん減ったんですけど、何屋さんかが分かりやすくなったのです。また全ての施策、例えばどういう接客スタイルがいいのか、どんな雑誌に載せればいいのかといったことも明確になり、動きやすくなりました。ただ、雑誌に載せるにしても知識が全く無いので、いろんな出版社に電話をして「載せてください」と。ほとんどがお金の話になるんですけど、面白がって載せてくれる人もいたのです。

 

当時は読者モデルが非常に流行っていました。うちのスタッフに読者モデルがいれば、お客様が来るんじゃないかと思ったんですね。早朝にキャットストリートでそういう撮影をやっていると聞いて、一人で飛び込んでいって。大人の撮影スタッフばかりの中で僕だけが若かったので、アシスタントだと思われて、読者モデルと仲良くなることができました。それを繰り返していくうちに、ステュディオスに入りたいという子が現れて。商品を着せまくって、雑誌に載る時には「私物/価格は忘れました」と書いてねってお願いして。お客様に対しては読者モデルの私物のほうが効果は高いから。

 

久保:読者は一生懸命、調べるわけですね。

 

:そうです、そうです! それによって一気にお客様が増えて、3、4ヶ月くらいで売り上げが上がってきて、黒字になったのです。ただ、僕がやったことはその場しのぎの施策でしかなかったので、やりながらも「いつまでも続かないな」と思っていました。そこで、その場所を使って日本のブランドを扱うセレクトショップをやりたい、ゆくゆくは世界にも出していきたいと鹿島社長にプレゼンテーションしたのです。OKをもらうことができて、2007年4月、新生ステュディオスが誕生しました。

 

<中略・新生ステュディオスの品揃えの話、独立にまつわるエピソード>

 

石田:その後、アパレル業界史上最年少で東京証券取引所マザーズ上場。すごいですね。

 

:アパレル業界ではデザイナーなどクリエイティブな方は活躍されていますが、若い世代がもっともっと活躍しなければいけないと思っているんです。上場時は31歳で、アパレル業界で最年少上場と言われましたけど、他の業界ではもっと若い人がたくさんいますから。

 

石田:今、海外では香港にお店がありますが、今後はどういう国に出店予定ですか?

 

:香港のお店は創業して10年後に出店しました。「TOKYO BASE HONGKONG」を作って、もう一回創業したみたいなイメージです。最近では上海にも出店しました。日本で大きく広げようとすると、どうしてもアイテムをコンサバ、マス寄りにしなければならないんですけど、海外で成功するためには全く逆です。よりニッチにしていく、よりコアにしていく、よりデザインしていくという発想が大事。「ファッションの面白みを体現しながら大きくなっていく」という感覚がすごく楽しいですね。今後は北京や成都、広州、深圳といった中国エリア、ゆくゆくはパリやロンドン、ニューヨークなど全世界に広げていきたいと思っています。

 

久保:そもそもドメスティックブランドに限った理由について聞かせてください。

 

:2つあります。まず、自分がファッションを好きになったきっかけは、裏原宿だったんですね。僕より上の世代だったらインポートブランドがいいという方もいらっしゃるんですけど、僕の世代は圧倒的にNIGOさんの「エイプ」や清永さんの「ソフ」がカッコイイ。そもそも「日本ブランドの方がカッコイイじゃん」と消費者として思っていたのです。2つ目は、アメリカに何回も行って現地のライフスタイルを体現したとしても、例えばデイトナの鹿島さんのような人には「絶対勝てない」と思ったのです。自分の得意なところで勝負するしかない、フリークスストアと全く逆のことをやらなければいけない。それで中途半端にインポートブランドではなく、日本のブランドだけで勝負することを決めたのです。そうしたところは小さな個店ではたくさんありますけど、多店舗展開で大きくビジネスにしていくところはないですね。

 

久保:中国やアジアだけでなく、欧米にも出店していくとおっしゃっていました。でも、先進国でお店を出すって大変なことですよね。家賃が高いとか、不動産の仕組みが複雑とか。だいたいそのハードルで参ってしまう。だからこそ、そんな場所があると日本のブランドにとっては有り難い存在になります。ぜひとも株価を上げて(笑)、お金をいっぱい集めて、出してほしいと思っています。

 

<後略・グローバル視点の大切さ、クロージングトーク>

詳細は、SMART USENでお聴きください。

 

・SMART USENの「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」、第27回のゲストは株式会社TOKYO BASE代表取締役の谷正人氏

 

▼公開情報
USENの音楽情報サイト「encore(アンコール)」
http://e.usen.com/

 

 

 

 

 

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