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2019.06.07

ゲストはデイトナ・インターナショナル代表取締役社長の鹿島研さん 第23回SMART USENの「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」

 USEN(東京、田村公正社長)が運営する音楽情報アプリSMART USENで配信中の「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」。ウェブメディア「ジュルナルクボッチ」の編集長/杉野服飾大学特任教授の久保雅裕氏とフリーアナウンサーの石田紗英子氏が、ファッション業界で活躍するゲストを招き、普段はなかなか聞けない生の声をリスナーに届けるが、アパレルウェブでは、その模様をレポートとして一部紹介していく。第23回のゲストは株式会社デイトナ・インターナショナルの代表取締役社長、鹿島研氏。

 

▼全編はこちらでお聞きいただけます▼

 

 

提供元:encoremode

<前略・オープニングトーク>

 

久保:デイトナ・インターナショナルは、セレクトショップの業界では大ブームな会社です。「フリークス ストア」というお店は随分長くやっているんですけど、最近では某業界紙で特集も組まれ、今、すごく勢いがあります。古いセレクトショップの人たちにもとても注目されています。そういう会社を率いているのはどんな人なんだろうということで、今回はお呼びしました。

 

鹿島:こんにちは。よろしくお願いします。

 

久保:さっき撮影で神南の渋谷店(旗艦店)に伺ったら、店内に鹿島さんのバイクが置いてありました。もう趣味の世界ですね。

 

石田:お店もそうですけど、セレクトされたものが全部、ご自身にお似合いのものですよね。世界観が統一されています。そんな鹿島さんはこれまでどんな人生を歩んで来られたのか、今日は伺いたいと思います。お生まれはどちらですか?

 

鹿島:静岡県です。両親はともに東京なんですけど、父が東京オリンピックの前年まで新幹線と東名高速を通す工事現場に行っていて、その現場で生まれたのです。母によく言われるんですよ。「産院に行くときも帰るときも会社のジープだったから、あなたはジープが好きなのね」って。

 

石田:ずっと静岡にお住まいになっていたわけではなくて、工事が終わると……

 

鹿島:また東京に戻って。建築系の仕事をしていたので、現場と東京の2カ所を転々としていたんですね。その後、あるご縁があって、茨城の古河で両親がお店を開業することになったのです。僕が3歳の頃です。

 

石田:古河で何のお店を?

 

鹿島:餃子の専門店です。

 

石田:ええっ! 今でも?

 

鹿島:今でも。地元ではけっこう有名です。丸満というんですよ。

 

久保:将来は餃子屋さんを継ぐと思っていたのですか?

 

鹿島:なんとなくは思っていました。でも、1974年のことでしたか、お兄ちゃんがくれた1冊の本が人生を変えたんですね。『メイド・イン・U.S.A.カタログ』っていう本。開いた瞬間、アメリカが飛び込んできたんです。グッと惹かれたのを覚えています。

 

久保:以前、この番組にシップスの顧問、鈴木晴生さんをお呼びしたことがあって、彼は『シアーズ・ローバック』のカタログを見ていきなり、これがアメリカだと思ったと言っていました。そういうものってやっぱりあるんですね。

ところで、お母さんの教育というか、子供時代にすごく言われたり、印象に残っていることなどはありますか?

 

鹿島:ありきたりですけど、「誠実に、謙虚で」ということですかね。

 

久保:お手伝いなんかもしていたのですか、餃子屋さんの。

 

鹿島:子供の頃は、朝起きるとお店の掃き掃除をお手伝いするのがルールでした。それをしないと朝御飯が食べられない。掃除をしていると、たまに椅子の影のほうに100円玉が落ちていたりするんですよ。でも、お客さんが落としたわけではなく、母の仕込みだったらしいんですけど。それはお駄賃というか、「神様がくれたんじゃないの」みたいなね。

 

久保:そうやってお小遣いをくれる。昭和な感じですね。きちっとしなさいという。

 

<中略・高校時代のテニス、自身の部屋と店の話>

石田:餃子屋さんのお手伝いをして、そのまま餃子屋さんにお勤めされています。でも、2年ほどでもっと他のことがしたいと思ったそうですね。

 

鹿島:大好きだった服を、どうしてもやりたかったのです。たまたまその時に、先輩が賃貸のお店のスペースを持っていて、「そんなにやりたいんだったらやったらいいんじゃない」と、格安の条件で貸してくださって。夜な夜な仕事が終わるとそこに行って、ペンキを塗ってみたり、「どうやって仕入れをしようか」と考えてみたり。友達に手伝ってもらってフリークス ストアの原型になる店を作っていったのです。1986年のこと、まだセレクトショップという言葉がない時代でした。当初はアメリカの学生たちが着ている、『メイド・イン・U.S.A.カタログ』に載っているようなものを揃えていました。このアメ横的なものに、もう少しヨーロッパのものを入れて、セレクトショップになっていったのです。

 

石田:どうやって集客をされたのですか?

 

鹿島:とにかくいいお店、かっこいいお店を作って、お客様を大切に。それが少しずつ口コミで広まっていったのです。半年くらい経って、お客様からお名前などを聞けるようになってからは、手書きの「フリークス・ニュース」を月に1回、送りました。こんな商品が入るとか、この映画を見たらすごく面白かったとか、このアルバムがすごく良かったとか。手書きでカルチャーをどんどん発信していく。それもコピーで、自分で折って封筒に入れて送るということを2、3年やっていました。

 

石田:2号店を出されたのは、どれくらい経ってから?

 

鹿島:3年目、89年に柏店を出しました。当時あったお金で出店できて、古河を拠点にいろいろな商品を運べるところなど、いろいろ考えて。柏店に行くときの車に荷物を積んで、みたいなことをやっていましたね。

 

久保:その後、売り上げは伸びていきましたし、お店も増えていきました。ただ、内部的には厳しい状況があったそうですね。

 

鹿島:言葉で言うと、「傲慢な社長が自分で考えたものがすべてうまくいっていたので、(スタッフは)考えなくていいから僕に言われたことをやって」という感じでした。それで会社を引っ張ってしまった、ということです。コスト意識もすごく高かったので、店長は全員古河に住んで、お店に行ったら必ず夜に帰ってきて報告をする。翌日の補充分の商品は全て店長たちの車に積んで行ってもらう。そんなことをやっていました(笑)。

 

久保:経営者としては良かれと思ってそう言っているけれども、社員にとっては、もしかしたら苦痛だったこともあるかもしれません。

 

鹿島:そうですね、今とは真逆の社風でした。「権力と支配のデイトナ・インターナショナル」みたいな(笑)。

 

石田:今、私たちの目の前にいる鹿島社長の包み込むようなやさしい雰囲気になられたのは、何をきっかけに、いつ頃からですか?

 

鹿島:大きなつまずきがあったのです。2003年に原宿に出したお店がうまくいかなかったんですね。先輩たちのお店がある中で、数年しかキャリアのない自分たちの物作りなんて通用しなくて。当時、田舎で1店舗だと12で3000万円ぐらい売れていましたが、原宿ではその4分の1も売らせてもらえなかった。それが1年間続いていたのです。会社としては本社を原宿に移転し、原宿店にも投資して、借金が返せないという非常に厳しい状態でした。社員たちにも「僕の今までのやり方がまずかった。もう一度、気持ちを入れ直してやるからついて来て」と伝えました。そのときに、渋谷店の話が来たのです。

 

久保:神南の?

 

鹿島:そうです。「ここだ!」と思いました。「ここで勝負しなければ、田舎に帰ることになる」と。この出店については、誰にも相談しませんでした。

 

石田:え~!

 

鹿島:決めちゃいましたね。この店に勝負を賭けて、物作りと店作りを同時に進め、2カ月に1回ぐらい大きくレイアウト替えをしました。「これじゃ売れない、もうちょっとこうしよう」ともがき続けて、少しずつ売れるようになっていったのです。

 

石田:その賭けが当たったと。

 

鹿島:当たったと言うか、一つひとつ形になっていった。そこから10年間はルミネさんやパルコさんへの出店があり、新業態として「ステュディオス」と「ハローハロークロージング」も始めました。そこへまた予期もせぬ大波が押し寄せてきて……。

 

<中略・2回目の大波、経営危機からの再建>

鹿島:1回目、2回目と大波に遭っても、社員があって会社は成り立ってきました。そして自分たちで生産性もキャッシュフローも上げてきました。弊社は今、無借金経営なんですね。ですから、ハウスもやるし、ホテルもやる。何をやるにしても自分たちのお金でやる。うまくいかないときにも常に引き返せるという状態です。

 

久保:すごいことですよ。2回の大波をくらって、1回目はご自身の慢心に気づいて、「もう一度ついてきてくれ」と。で、2回目はちょっと不可抗力的なことでしたが、ここでもご自身が変わった。変われたからこそ今があると思うのです。普通の人はなかなか変われないじゃないですか。落ち込んじゃって、引きずったり。自分を変えられるのは謙虚だと思うし、なかなかできないことかなと思います。もし3回目の大波が来たとしたら、こうやって乗り越えるということはありますか?

 

鹿島:素直に受け入れてベストを尽くすしかないんですよね。この歳になって、それが自分の中で一つの人生の体感値、体験値としてあります。社員にも言うんです。「若いうちに大きい失敗をしなさい」って。チャレンジをすれば、失敗もします。失敗がないのは、チャレンジが足りないからかもしれません。僕の場合はちょっと高めの授業料だったけど、今こういう会社になれているのはそのときの勉強が相当プラスになったと思っています。

 

石田:そうやって再建されて、今はホテルや住宅も展開されています。今後は他の事業も考えていらっしゃるのですか?

 

鹿島:基本は服屋で、現在はフリークス ストアが40店舗あり、40万人の会員さんがいらっしゃいます。この会員さんに服以外の豊かさをどうやって伝えていけるか、服のまわりにどういうコンテンツを作っていくのか。社員と家族的で生産性の高い会社づくりができていることを武器に、さまざまなビジネスに挑戦したいと思っています。

 

<中略・店舗併設のギャラリー、趣味の写真、旅の話>

 

石田:最後に、番組を聴いてらっしゃる若い方にメッセージをいただけますでしょうか。

 

鹿島:服屋は決して斜陽ではなく、まだまだやりようがあります。進化し続けていかなくてはいけません。進化のためには、アイデアと行動を伴ったチャレンジがすごく大切です。神様は乗り越えられない試練は人間に与えないと思うのです。ですから、チャレンジをして、乗り越えて、自信をつけて、またチャレンジをして、乗り越えて、自信をつけて。今まさに僕自身がボーダーレスと言いますか、遊びも仕事も境が無いんですね。遊んでいる友達と仕事でご一緒することがあったり、仕事を通じて新しい友達と会ったり。月曜日に会社に行くときも、バイクに乗りたいときも、海に行って波に乗るときも、テンションは全く一緒で、何をやっていても楽しい。こういう先輩がいますから、ぜひチャレンジをしてみてください。LIFE TO BE FREAKです(笑)。

 

*LIFE TO BE FREAK:デイトナ・インターナショナルのビジョン。「熱狂的に生きて世界中を幸せにします」の意が込められている。

詳細は、SMART USENでお聴きください。

 

SMART USENの「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」、第23回のゲストは株式会社デイトナ・インターナショナル代表取締役社長 鹿島 研さん

 

▼公開情報
USENの音楽情報サイト「encore(アンコール)」
http://e.usen.com/

 

 

 

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