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2020.01.08

ゲストはデスペラード クリエイティブディレクター泉 英一さん 第29回SMART USENの「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」

 USEN(東京、田村公正社長)が運営する音楽情報アプリSMART USENで配信中の「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」。ウェブメディア「ジュルナルクボッチ」の編集長/杉野服飾大学特任教授の久保雅裕氏とフリーアナウンサーの石田紗英子氏が、ファッション業界で活躍するゲストを招き、普段はなかなか聞けない生の声をリスナーに届けるが、アパレルウェブでは、その模様をレポートとして一部紹介していく。第29回のゲストは「デスペラード」のクリエイティブディレクター、泉英一さん。

▼全編はこちらでお聞きいただけます▼

 

 

提供元:encoremode

石田:今日のゲストは渋谷の個性的なセレクトショップ「デスペラード」の泉英一さんです。

 

久保:業界では超有名人なんですよ。たまたまパリの大きなトレードショーのオーガナイザーを案内していたときに「あの人はよくパリで見かけるけど、誰なんだ?」みたいな話があって、「デスペラードの泉さんだよ、有名なバイヤーだよ」と言うと、「そっか」って通じてしまう。それくらい非常に個性的な風貌なんですね。一回見た人はすぐに分かる。お店は何て言うか……かなりキャッチーな、個性的なブランドをいっぱいバイイングしている有名なセレクトショップです。かつてレナウンルックという会社があって、ルックという名前に変わりましたが、そこが運営していました。この店を立ち上げたのが泉さんで、今はご自身が引き継いで経営されています。

 

泉:こんにちは。よろしくお願いいたします。

 

石田:こんにちは。確かに、ひと目お見掛けすると、もう忘れない……。ハットがお似合いでいらっしゃいます。そして眼鏡と長髪が、ね。

 

久保:もうハッとするくらい(笑)。とにかくこのキャラクターなので、業界でもみんなよ~く知っているわけですよ。知っているんだけども、ちょっと仙人みたいな感じで、声を掛けづらい人もいるんじゃないかなっていう。

 

石田:カリスマっていう感じがしますよね。

 

泉:いやいや。

 

石田:そんな泉さんがどんな方なのか、ひも解いていきましょう。大阪府のご出身とうかがいましたが?

 

泉:生まれも育ちも大阪です。高校まではずっと大阪で、大学のときに東京に出てきて以来、ずっとこっちにいます。でも、月に1回とか2カ月に1回は大阪のほうでお仕事があるので、行ったり来たりです。

 

久保:ご両親はどんな方だったのですか?

 

泉:父親は建材の会社を経営していました。ですから、大学時代までアルバイトは父の建材屋で材料を運んだり、現場で大工まがいのことをしていましたね。

 

久保:だからお店もDIYしちゃうんですね。小屋を作ったり、テラスを作ったり。

 

泉:はい、ほぼ全部自分で。親父の後を継ぐかどうかというのはあったんですけど、高校くらいからファッションの道っていうのは決めていたんです。長男なのですが、父に「継がない」と言ったら、「じゃあ好きなように」と。

久保:お母さんは何をされていたのですか?

 

泉:専業主婦ではありましたけど、モダンで、英語も喋れる人でした。お友達がアメリカ人だったりね。スキーをやったり、ボウリングをやったりとアクティブで、ファッションが大好きでした。母に連れて行かれる所というと、ブティックだったんですね。「JEAN PATOU(ジャン・パトゥ)」のコートを買いに行ったり、そういうところに付き合わされていました。

 

石田:お父様とお母様のDNAをしっかり受け継がれて、融合された感じですね。

 

泉:そういうものが道楽息子みたいなものを生んでしまったのかなあ、と思いますけど。洋服は小学生の頃から、母に連れて行かれて自分で選んでいたんです。当時は「VAN(ヴァン)」を着ていましたね。まだ身体が小さかったので「VANmini(ヴァンミニ)」でないと着られなかったのですが、小学校1、2年から3年生くらいまでは自分で選んで買っていました。

 

<中略・自分でファッションを選んでいた小学生時代の話>

久保:そこそこ裕福なご家庭で育って、大学で東京へ出てこられました。普通に考えると、ちょっといいマンションかなんかに住んで、みたいな感じになるかと思うんです。でも意外や、おばあちゃんのところに……。

 

泉:そう! おばあちゃんのところに行ったんですよ。小遣いまで送ってもらうのは気が引けたので、最低条件の食費と学費、それとおばあちゃんのところにいくらか、ということにしました。仕送りはしていただいたのですが、洋服とかに関しては自分でアルバイトをして買おうということで、ペンキ屋に……。

 

久保:ペンキ屋さん!? それだけ洋服が好きなのに、なぜ洋服の販売をしなかった(笑)。

 

泉:ペンキ屋と言っても、僕が入ったところはみんな美大出身で、画家では飯が食えないのでペンキ屋をやっているという職人さんが多かったんです。ペンキ屋はやるんだけど、絵も描いている。そういう人たちと肌が合ったんですね。で、そこにはもう一つのグループがあって。そっちはどちらかと言うと反社会のほうから足を洗ったという人たちでした。二つのグループの、どちらにも可愛がっていただきました。職人さんたちがお子さんの家庭教師をやってくれと言うので、昼はペンキ屋をやって、夜は家庭教師をしていましたね。ですから、それなりに稼いでいたんです。普通のアルバイトよりは身体もきついですし、汚れます。でも、技術がついてくると、だんだんバイト代が上がっていく。そのお金を全て旅行と洋服に使っていました。旅行も、洋服を買いに行く旅行なんですよね。アメリカの東海岸、いわゆるNYから入って、グレイハウンドバスに乗ってサンフランシスコ、LAまで1カ月間ほど。

 

久保:大学時代のことですか?

 

泉:はい。デイパックを背負って。

 

石田:へえ~っ!

 

久保:泉さんは商業貿易を勉強したいということで、大学は商学部に進まれています。端から貿易とファッションをやると決めていたのですね?

 

泉:そうです。当時はインポート被れというか、あらゆる面で海外のものに影響を受けていました。母の影響が強かったのです。洋服って「服」の上に「洋」と書いてあるくらいですから海外のもの、日本は和服ですよね。僕は洋服っていうところに行きたくて、欧米のものを中心に見ていきたいという思いがあって。NYのセレクトショップの中でも「バーニーズ」もあれば、当時は「シャリバリ」もありました。そこに日本のいろんなデザイナーの服が飾られていて、「すごいなあ!」とびっくりしました。

<中略・大学時代の話、現在の風貌になった訳と日本と海外での反応について>

石田:とても思い出深い旅をして帰って来られて、入社されたのがレナウンルック、現在のルックだったのですね。どういうことをなさっていたのですか?

 

泉:最初は専門店への卸です。まずは千葉県の担当になり、館山とか鴨川とか銚子とか外房のブティックを回っていました。1年経って埼玉県の半分、所沢とか浦和とか秩父くらいまでを担当させていただいて、専門店さんを毎日訪ねて売り歩いていました。6年が経った頃に「おまえ、何か変わってるなあ」ということで、社長から「ちょっと違うことをやってみたらどうか」と言われたのです。当時のルックはミセスの商品を中心に企画・製造・販売していたのですが、10年後には今のお客さんの層はその分だけ歳をとり、今の若い人が大人になるから、おまえは若いゾーンのことを考えろと。また、当時の卸先は百貨店が80%、専門店が20%でしたが、10年後にはどうなるか分からない。百貨店も今は元気だけど、10年後も消費者が購入するところであるとは限らないと。これから専門的なお店がどんどんできていく中で、会社としても50対50くらいに持っていきたい、そこに向けた商品を開発しよう、ということになったんですね。それで、自分は幼少の頃から見ていた海外へ行ったのです。お金は出してもらえなかったので、自腹で……。

 

久保:自腹で!?

 

泉:ええ。きっかけは新婚旅行だったんですけど(笑)。現地では女房を置いたっきりで、夜のご飯だけ一緒。朝になると「出かけてくる」っていうことで。そうやってパリ、イタリア、ロンドンの3カ国を回りました。

 

久保:そのときのこと、いまだに奥さんに言われません?

 

泉:いや。付き合っているときから、どこに行くにしても待ち合わせでしたから。それぞれ見たいものが違うと思うんです。一緒に見たくないものを先行すると、お互いの見たいものが全て半分ずつになってしまうでしょう。だったら、それぞれが見たいものを見る。もちろん共通の見たいものがあれば一緒に見ますけど、基本的には別々な行動をして、夕食の時間に待ち合わせをする。ずっと同じ行動をしていると、喋りたいことが全くないわけですよ。だから、見てきたものをお互いに報告するんです。自分が10個見てきたもの、女房が10個見てきたものについて意見交換すると、それぞれが20個の情報を得られるという考え方だったので、新婚旅行もそれで(笑)。そうやって海外からブランドを買い付けて持ってくるようになったのです。80年代後半、90年代に差し掛かった頃でした。当時はなかなか理解されなかったんですけど、海外のブランドとの出会いがたくさんあったものですから、そういうことを無理矢理やり出したのです。それをずっとやっている状況ですかね。

 

久保:最初の頃はどんなブランドと出会ったのですか?

 

泉:一番有名になっているのが「DRIES VAN NOTEN(ドリスヴァンノッテン)」ではないでしょうか。その後に「CHRISTOPHE LEMAIRE(クリストフルメール)」「IL BISONTE(イルビゾンテ」)「marimekko(マリメッコ)」……今はセントラル・セント・マーチンで教えているファビオ・ピラスのブランドも、私が日本に持ってきました。「BELLA FREUD(ベラフロイド)」「MARC JACOBS(マークジェイコブス)」などもそうですね。今でこそ海外ファッションに関心のある方はご存知のブランドがあるんですけど、当時は名前を覚えてもらうのも大変でした。ドリスヴァンノッテンは、ブランド名の読み方もこちらで考えたものです。

 

石田:えーっ!

 

泉:ベルギーではドリスヴァンノッテンではなく、ドリスファンノッテンなんですよ。日本人に分かっていただきやすい言葉で日本登録をするので、プロデュースしていく際には、現地で何て読むかは別。映画のタイトルを日本で勝手に付けているのと一緒ですね。英語で言ったらそうはならないんですけど、日本人がストレートに分かるようにするということは、プロモーションというか、分かっていただくためには大事かなと思っています。

<中略・デスペラードの品揃えの話、ファッション須賀との提携の話>

 

石田:最後に、ファッション業界を目指している方々にメッセージをお願いします。

 

泉:自分は服が好きでファッションでお仕事をして40年近く経ちますが、何をやるにしても10年という年月は必要だと思っています。10年未満で一人前になれる職業は一切なく、10年やるという覚悟がないとダメ。そういうものを早く見つけて、それが幸いにもファッションであれば、覚悟をもって続けていっていただきたいですね。見倒すなり、着倒すなり、とにかくやりたいことに懸けていただきたい。若い人だとお金がないということもよく聞きます。でも、僕みたいに40年前に20歳だった人間もそうですが、若い頃にお金がない人なんて普通だったように思います。僕もペンキ屋さんでアルバイトをし、家庭教師もやって、そのお金を持ってNYに行って洋服を買ってということをやってきました。今の若い人たちだけがお金がないわけではないということをお伝えしたいなと思います。

▼公開情報
USENの音楽情報サイト「encore(アンコール)」
http://e.usen.com/

 

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