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2020.02.14
ゲストはバロックジャパンリミテッド 代表取締役社長 村井博之さん 第31回SMART USENの「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」
USEN(東京、田村公正社長)が運営する音楽情報アプリSMART USENで配信中の「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」。ウェブメディア「ジュルナルクボッチ」の編集長/杉野服飾大学特任教授の久保雅裕氏とフリーアナウンサーの石田紗英子氏が、ファッション業界で活躍するゲストを招き、普段はなかなか聞けない生の声をリスナーに届けるが、アパレルウェブでは、その模様をレポートとして一部紹介していく。第31回ゲストはバロックジャパンリミテッドの代表取締役社長、村井博之さん。
石田:今回のゲストは「MOUSSY(マウジー)」「SLY(スライ)」「ENFOLD(エンフォルド)」など、女性に人気のブランドを展開されているバロックジャパンリミテッドの代表取締役、村井博之さんです。
久保:バロックジャパンリミテッドは社名もわりと知られていると思いますけど、展開されているブランドの名前を知っている人はたくさんいるのではないでしょうか。どれも昔で言うマルキュー、渋谷109でスタートした歴史のあるブランドですが、現在は百貨店やショッピングセンターなどにも出店し、中国にも進出されています。
石田:それではバロックジャパンリミテッドの村井博之さんです。どうぞ。
村井:こんにちは。石田さんは初めましてで、久保さんはお久しぶりですね。
久保:いつもわりとスーツですよね。
村井:人にお会いするときはスーツが多いんですが、歳とるとですね、朝、スーツを着るのが面倒臭くなって、来客のない日はカジュアルが多くなりましたね。海外に行くときはカジュアルが多いですよ。ただ、カジュアルだけでいると、食事や音楽会などに行く日に、スーツを持ってくるのを忘れて慌てて買いに行ったりという失敗はあります。
久保:会社にもジーンズで行くことはあるのですか?
村井:そうですね、何しろうちは売りがデニムですので。まだ日本ではローンチしていないんですけど、海外向けにマウジーのメンズもスタートしました。そういう際に、自社製品はまずは自ら試着するということもあります。
石田:では、村井さんが今に至るまでどのような人生を送ってこられたのか、紐解いていきましょう。村井さんは東京に生まれて、東京でお育ちになったのですか?
村井:生まれたのは、広尾の高樹町にある日赤医療センターです。当時は病院が古くて、エアコンも付いていなかったそうです。7月26日生まれなので、暑い最中に母は僕を産んだことになります。せめてエアコンの付いている病院に入れてほしかったと言っていましたね。当時は病院にエアコンがあるのが珍しいぐらいでしたが……。昭和36年ですから、日本が終戦を迎えて16年しか経っていなかったんですね。
石田:子供の頃はどういう少年でしたか?
村井:自分で回想するのはなかなか難しいんですけども……ちょっと人と違っていたかもしれません。親の教育も、あまり人と同じにしないというか。僕らが子供の頃の子供の髪型って、近所の床屋さんとかで短めにバサバサっと刈っちゃうという感じでしたが、僕の母親はビートルズのファンで、自分の子供の髪形をこう……。今ではそういうお母さんもたくさんいますが、当時は珍しくて、ビートルズと同じように。
久保:マッシュルームカット?
村井:マッシュルームカットにするんですけど、それが子供的にはね、嫌だ、恥ずかしいって。他の人と違うのが、最初は嫌だったんですけど、そのうちそれが一つの売りになっていったというか。人と同じでなくて良いということが徐々に身についていった、そういう子供時代でした。
石田:洋服なども人とは違うものを着たり?
村井:そうですね、60年代にビートルズが着ていたもの、襟なしのブレザーとか。で、そういうものを、父がイギリスとかアイルランドに出張に行ったときに買ってきて、着せるんですよ。親の趣向を子供で実現するっていう。
久保:お父さんはどんな仕事をされていたんですか?
村井:僕も影響を受けているのかもしれないんですけど、父は一つの職業を勤め上げるというタイプではありませんでした。自分の興味が湧くと次々と転職をしていたんですね。母と知り合った頃は脚本家を目指していたそうです。私が生まれたときは建設でしたが、その後もどんどん仕事が変わって、今、メディアで調べると父は俳句を詠む人、日中の民間外交に貢献した人というカテゴリーで出てきます。
久保:いろんなことに興味を持つ、好奇心のある方だった。
村井:自分が好奇心を持ったことを子供と共有したいというところがあって。例えば写真が好きになると、子供にもカメラを与えて写真を撮ろうとか。模型が好きになれば、模型を作ろうとか。それから、子供は本物の刀を持てないですけど、自分は刀が好きだから子どもにもプラモデルの刀を持たせたり……。今はそういう自分の趣味を子供にも、という方々が多くいますが、当時は結構ユニークだったと思います。
<中略・中学・高校・大学時代の部活動の話>
石田:大学生活を謳歌した後、中国に留学されました。
村井:中国には大学在学中からちょこちょこ行っていました。日本の大学はそんなに一生懸命勉強しなくても単位が取れてしまったので。あと、休みも長いですよね。そういう時間を利用して北京に行っていたんです。それで大学を卒業してから、中国の大学でも勉強しました。初めて中国に行った時は、まあびっくりしましたね。
久保:それは1980年代のこと?
村井:ええ。大学1年生の夏休みに初めて行ったんですけど、まだ文化大革命の影響が残っていて、みんな人民服を着ていました。田園地帯に国立大学の重点校が集まっている北京市の海淀区に行ったのですが、「タイムマシーンで来てしまった」という感覚でした。
久保:昔の日本みたいな、ということですか?
村井:いや、実際には体験したことがない時代劇というか、そういうものでしか見たことがない世界です。北京空港から学校まで移動するバスに窓ガラスが無い。夜だったせいもあって余計に感じたんだと思うんですけど、信号機も無い。天安門広場前の長安街は今でこそいつも交通渋滞ですが、当時は車が1~2分に1台くらい。そんな時代でしたね。
石田:中国に留学したのは急成長を見越して、今、中国語を学ぶべきだと思ったから?
村井:いや、僕はヨーロッパの大学に行きたかったんですが、当時、中国と日本の民間外交の仕事をしていた父から、中国はこれから絶対に伸びると聞いて、その言葉を信じて中国にしたのです。当時は日中友好ブームで、パンダが来て賑わったりもしていました。また、高校の先輩の坂本龍一さんがイエローマジックオーケストラで、チャイナテクノみたいな音楽をやっていたり。何となく中国に対して漠然とした期待感があったんです。でも現地に着くや否や、それが打ち砕かれて……。
石田:そうやって中国語を習得して、日本に戻ってキヤノンに就職しました。
村井:これもご縁で。後に社長になられる山路敬三さんが副社長として北京に出張に来られて、通訳のアルバイトをしたのです。キヤノンが中国でビジネスを立ち上げるという時期で、そのお話を受けてキヤノンに入ることになりました。
石田:キヤノンではどういうお仕事をされていたのでしょうか?
村井:中国の拠点づくりですね。僕は北京にいたことがあるので、中国から日本に帰化した先輩と一緒に、キヤノンの北京駐在員事務所を立ち上げました。2人で文房具を買うところから始めたんです(笑)。僕はその後もずっとそういうビジネスマン人生なんですよ。キャノンの次にはJAS(日本エアシステム)にお誘いを受けて移ったのですが、JASでは海外事業、とりわけ中国路線の準備をゼロから行いました。当時の中国には北京と上海にしか日本路線はなかったのですが、観光需要が旺盛な地方都市だった西安や昆明、広東省、ビジネスが盛んになっていた広州に路線を開設する仕事を担いました。
<中略・中国で事務所を立ち上げたときのエピソード>
石田:そして、フェイクデリックホールディングスを立ち上げられた?
村井:バロックジャパンリミテッドは僕が創業したんですけど、現在の主要ブランドであるマウジーは実は別に創業者がいます。マウジーは2000年に109の20坪くらいの店舗でスタートし、瞬く間に人気ブランドに成長しました。その運営会社がフェイクデリックなんですね。創業のメンバーたちは僕より10歳以上も若い人たちです。彼らとは飲食の場で知り合ったので、最初は何をやっている人たちなのかよく分からなかったんですけど……。
久保:夜の世界ですか?(笑)
村井:夜の世界ですね。
石田:へえ!
村井:僕は当時、香港にいて、彼らもよく香港に来ていたんです。話しているうちに洋服屋さんで、生産の仕事で来ていることが分かりました。だんだん親しくなって、「今度、マウジーを見に来てくださいよ」と言われたのです。で、渋谷の109に行ったら、こんなに人が入っているんだとびっくりして。それがきっかけで、「村井さんも経営に参加してください」ということになって、フェイクデリックの経営に入りました。そこから「これはすごいビジネスになるぞ」と思って、マウジー、スライ、その他にも当時あったマルキューブランドのいくつかを経営統合してバロックジャパンリミテッドを作り、今に至っています。
久保:とはいえ、かなり畑の違う会社からアパレルへ。普通に考えると、「これはいけるぞ」と思ったとしても、清水の舞台から飛び降りるくらい大胆な転換だったのでは?
村井:僕は「こう」と決めたらそっちに頭がいってしまうタイプなので……。なぜフェイクデリックを経営したか、さらに進化させてバロックにしたかというと、大企業にない魅力があったからなんですね。大企業では学歴などでその人の優秀さが評価されるのですが、フェイクデリックには大卒者は片手で数えられるくらい。ただ仕事に一生懸命で、会社としてもきちんと利益を出していました。神輿で言えば力を抜いている人が誰もいないというか、全員で担いで全員で進んでいく、その醍醐味に魅了されたと言うのでしょうか。大企業での人生からすると目からウロコ、企業の真の価値って何なんだろうと考えさせられました。そういうこともあって、「この会社をもっと良い会社にしてやろう」と、バロックジャパンに編集し直して経営に本腰を入れたのです。
久保:今、店舗数はどれくらいですか?
村井:日本が358店舗、中国が260店舗です。
久保:600店舗!
村井:今は合弁会社にして中国側とパートナーでやっていますが、最初の頃は1店舗1店舗、すべてうちで作っていきました。2010年に本格稼働したのですが、最初は100%投資で30数店舗を自力で作りました。中国で大きなシェアをとっていくにはこの速度感では難しいということで、中国の大手小売りのパートナーとの合弁に切り替えたのが6年前のことです。そこから破竹の勢いで260店舗まで広がりました。
久保:日本だと「1年間20店舗出します」というと「すごいですね」。中国はこの10倍くらいのイメージですね。
村井:最初の信号機のない北京から随分と、すごい勢いで変わったということですね。
<中略・グローバル展開の話、メッセージ、クロージングトーク>
詳細は、SMART USENでお聴きください。
※今回の記事をもって、SMART USEN「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」紹介記事のアパレルウェブへの掲載は終了致します。 次回以降は、下記、SMARTUSENのウェブにてご覧ください。
▼公開情報
USENの音楽情報サイト「encore(アンコール)」
http://e.usen.com/