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2019.01.11

ゲストはファッションジャーナリスト宮田理江さん 第18回SMART USENの「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」

 USEN(東京、田村公正社長)が運営する音楽情報アプリSMART USENで配信中の「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」。ウェブメディア「ジュルナルクボッチ」の編集長/杉野服飾大学特任教授の久保雅裕氏とフリーアナウンサーの石田紗英子氏が、ファッション業界で活躍するゲストを招き、普段はなかなか聞けない生の声をリスナーに届けるが、アパレルウェブでは、その模様をレポートとして一部紹介していく。第18回のゲストはファッションバイブル編集長で、ファッションジャーナリストの宮田理江さん。

▼全編はこちらでお聞きいただけます▼

 

 

提供元:encoremode

<前略・オープニングトーク、幼少期から大学までの話>

 

石田:当時は、ファッション系のお仕事に行こうと思ってらっしゃったんですか?それとも他の道を?

 

宮田:父親が割りと古風な人で、「普通の企業に就職してほしい」とずっと言われていたので、「まずはOLに」ということで、短大を卒業して大きな会社のOLに。

その時は制服だったんですね。通勤は私服だったんですけれど、終わった後に会食がしょっちゅうあって、やはり私服でそういった会食に行かなきゃいけないので、通勤も割りとカチッとしたスーツを着ていかなきゃならなかったのです。

オシャレが全くできなくなってしまって、ものすごく辛かったんですよ。毎日満員電車に揺られながら、自分がスーツを着て、「この姿を知り合いに見られたくない」ってずっと思っていて。

 

久保:「ゴルチェ着ていた人が?」みたいな。

 

宮田:「ずっと私はこのままなのか」と思った時に、「やっぱりファッションが好きだから、好きな服を着てお給料もらえる仕事ってないかな」と色々考えた時に、「販売員になったら、好きなブランドで働けば、毎日楽しい気持ちで居られる」と思って。それで半年で退職。その会社名は言えないんですけど、結構大きな会社だったので、「半年で辞める人は今までに居なかった」と何度も呼び出されて「よく考えなさい」って言われたんですけど。

 

久保:それに「好きな洋服着たいから」と言っても信じてもらえないみたいな?

 

宮田:はい。そうだったのです。でもやっぱり私はファッションの仕事に行きたくて。

 

ニコルに面接に行った時は、まだ辞めていなかったので、有休を使って面接に行っていたのですが、「この会社本当に辞められるんですか」って言われたんですよ。「合格したらすぐにでも辞めます」って言って。すぐその日の夜に電話が掛かってきて、「合格したので、辞めます」って。

 

久保:すごい決断ですよね。

 

宮田:逆に「嬉しい。私好きな洋服を着られる」と。

 

久保:今こういう時代だから、「安定した会社が良い」とか思いがちじゃないですか。そういう人からすると「えっ、辞めちゃうわけ?」みたいなね。ある種、波瀾万丈な人生を選択したというか。

 

宮田:そうですね。その後はしばらく父親が口きいてくれなくて。母親はすごく理解してくれていたので、「自分が本当にやりたいことだったら、頑張りなさい」と。

<中略・ニコル時代の活躍からアナ スイの販売員へ>

 

宮田:アナ スイで5年間働いた後、アナ スイを辞めて、最初ワシントンD.C.に3カ月居て、その後ニューヨークに行きました。ファッションの勉強で学校に行っているわけじゃないんですけど、アナさんからデザインチームにおいでっていう形で言ってくださってインターンとして加わりました。

 

毎日アナさんがデザインしているのと、パタンナーの方々とも一緒に居て、デザインチームに入った時はびっくりしたんですけれども、最初は「PRとかに入るのかな」と思ったものですから。「デザインチームでいいのかな」と思ったんですが、アナが言ってくださったのは、「リエは日本のマーケットをよく知っているし、日本のアナ スイですごく売り上げも獲ってきてたから、日本人がどういうものが好きかとかも理解している。日本はすごく大事だから、デザインチームに一緒に居て、意見を反映出来たらいい」と言ってくださったんです。「そこで使ってもらえた」というのがすごく嬉しくて、英語もそんなに出来なかったんですけど、みんなと日本の雑誌、特にアナは『装苑』が好きだったので雑誌を見ながら、「これ何て書いてあるの?」みたいな(笑)。片言の英語で「こんな感じだよ」と説明してあげたり。「日本は今こんなのが流行ってるよ」とか。

 

実際にアナ スイの表参道に居た時に、「宮田企画」というのもやっていたんです。なので、日本人はノースリーブだと肌を出したくないからカーディガンとか羽織りたいんですよね。それで、そういうものはニューヨークのブランドには無かったので、「そういうものを作りたい」ということを言って、アナが昔やっていたカーディガンの型を起こして、素材を変えてアナのOKを貰って、日本で「宮田企画」と銘打って300枚くらい作って。表参道店でノースリーブとか、ちょっと胸元が開いたワンピースを接客した時に、「これに、これを合わせれば普段も着られますよ」という接客をして必ずセットで買ってもらっていたんです。そういうことをアナも知っていたので、「日本のマーケットと言えば」というところがあったのですかね。

 

石田:そうやって信頼を勝ち取って行かれた。

 

宮田:すごく嬉しかったです。一緒に蚤の市行ったりとかして。

 

石田:ニューヨーク生活でもたくさんのものを吸収された宮田さんですけれども、いよいよファッションジャーナリストの道に行かれるわけですよね?これは帰国後どういう感じで?

 

<中略・帰国後ECサイトのバイイングからブロガーへ>

久保:今はもう名前も売れているし、ファッションジャーナリストとして活躍されているけどジャーナリスト以外の仕事も、色々とやっていますよね。

 

宮田:そうですね。テレビ通販のショッピングで、自身の洋服のブランドとアクセサリー、ネックレスとかジュエリーを持っていて、そこで作ってテレビの中で販売しています。ですから、今やっていることが何となく「宮田企画」や「オンリーアイ」をやっていた頃を思い出したりして。実は今やっているテレビ通販でもデザイナーさんに私が「こういうものをやりたい」というイメージを伝えて、それをちゃんとパターンを起こしてくれるデザイナーさんがいらっしゃるのですけど、その方がなんとニコルのデザイナーだったんですね。

 

久保・石田:へえ~!

 

久保:元ニコル?

 

宮田:はい、元ニコルのデザイナーさんなんです。ですから、私が販売員をやっていた頃からずっとお世話になっていた方で、私の販売員時代を知っているから、私が「どんな服を着ていたか」とか、「どんなものが好きだったか」も全部分かってくださっているんです。なので、私が「こういう感じで、こういうのをやりたい」「分かる分かる、好きだよね~」みたいな感じで作って下さって。だからとっても波長が合って、サンプルを何回も何回も作り直したりはしているんですけれど、すごく納得がいくものを二人でいつも作って、それを販売しています。

 

<後略・今後の夢と若い人たちへのメッセージ>

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